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2013年4月 9日 (火)

「幸せの国」ブータン 農業の父は日本人

               (2013年4月7日 日本経済新聞 より)

 国造りの理念に「国民総幸福(GNH)」を掲げ、「幸せの国」として注目を集めるヒマラヤの小国ブータン。この国の農業の礎を築いたのが日本人だということはあまり知られていない。西岡京治氏がその人。1980年に外国人で初めて「ダショー」という最高級の称号を国王から与えられ、死してなお尊敬を集める。西岡氏がブータンで活動を始めてほぼ半世紀。足跡をたどった。
 国際空港があるパロから首都ティンプーへ車で1時間半。谷間を縫うように走る道すがら、棚田やリンゴの果樹園がいくつも見えた。アスパラガスや大根、トマト、日本風のナシを売る露店も並ぶ。「ダショー・ニシオカがブータンの農業の全てを変えた。彼がこの地にまいた種への感謝を我々は忘れない」。労働人的資源省のソナム・テンジン次官(57)は称賛する。

【1964年から指導 「生き方語り継がれる」】

 大阪府立大農学部の修士課程を終えたばかりの西岡氏が海外技術協力事業団(現国際協力機構=JICA)から派遣されたのは、日本とブータンの国交樹立前の64年。欧米の植民地になったことがないブータンは鎖国状態にあり、辺境の地だった。
 西岡氏は標高2300メートルのパロ渓谷に入植。日本から限られた種や道具を持ち込み、野菜や果物を育て、試行錯誤を繰り返しながら日本式栽培法に一から取り組んだ。
 手順や指示を無視したり、嘘をついたりする農民や助手に時には手を上げることもあった。「でも彼への信頼は絶大だった。物々交換と自給自足の生活から『換金農業』へ人々の生活スタイルまでも変えた」と教え子の一人、ペマ・ドルジ氏(48)は力を込める。
 76年から5年間は活動拠点を最貧地域の中部シェムガンに移した。マラリアを恐れて山頂付近で焼き畑を行い、移動生活を続ける地元民に、麓に下りるよう説得。水田耕作を教え、往来を分断する川に橋を架け、数千人を低地に定住させたことは政府内でも今も語り草だ。
 生き方を語り継ごうという動きも広がる。パロで西岡氏が切り開いた農場は現在、日本からの無償資金で送られた農業機械の使用法の指導や補修を行う農業機械化センター(AMC)と国立種苗生産所となり、ブータン農業の最大拠点だ。その一角に、遺品や当時の映像が見られる記念室が最近完成した。国内だけでなく、日本やタイなどからも援助機関や農業関係者の訪問が絶えない。
 「西岡氏の歴史は、ブータンの開発の歴史そのもの。こんな男の存在を次世代のブータン人こそ知っておくべきだ」とは西岡氏の活動をまとめた著作のあるツェリン・スィーゲイ・ドルジ氏(38)。日本への留学経験がある同氏は、日本でも西岡氏ゆかりの土地を訪ね歩いて情報や写真を集め、先ごろ出版した。
 92年、59歳でブータンで客死し、葬儀は国を挙げて行われた。日本から駆けつけた妻、里子さん(77)に、GNHの哲学を生み出した第4代ワンチュク国王がそっと声をかけた。「ミセス・ニシオカ、肉体は古い服のようなものだと思いませんか」。輪廻(りんね)転生の仏教信仰に根ざした慈愛の言葉。里子さんは言う。「夫の魂は今も生き続けています」
 (パロで、岩城聡)

【私の意見】Up63

 アジアで地道に活動してアジアの人たちに感謝される日本人がいるのは誇りです。アフガニスタンやパキスタンのペシャワール会で活動する中村哲医師も西岡京治氏とともに私たちが誇れる日本人です。

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