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2008年3月28日 (金)

ある知的障害者のリーダーの死から8年

【高坂茂さん】

 高坂さんは1957年5月19日高坂家の長男として調布市に生まれました。小学校5年生の時知的障害があるとして調布市立の小学校の特殊学級に編入、中学生時代も特殊学級に在籍しました。卒業後3年間は父親が勤める鉄工会社で働きましたがやめました。18歳のときに中学時代の特殊学級の担任教師の横田滋氏の世話で貸おむつ等を大型の機械で洗濯するクリーニング会社につとめました。仕事はきつく、長時間勤務でしたが、がんばって知的障害の青年2人を部下にもつ主任をつとめていました。身も心も疲れていた2000年3月24日機械に巻きこまれ頭を打ち、4日後の同月28日に42歳で短い生涯をとじました。

【高坂さんと私】

 私が高坂さんと知りあったのは亡くなる1年数ヶ月前です。短い期間でしたが私は高坂さんから多くのものを学びました。高坂さんも私を自分たちの味方の弁護士として大切にしてくれました。障害者の労働の基本を定めた障害者雇用促進法が改正され1999年7月から実施されることになり、高坂さんが中心となって活動している知的障害者の当事者の会さくら会が私を講師として招いてくれたのが高坂さんと知り合いになるきっかけでした。この改正では今までの法定雇用率1.6%に加えて知的障害者枠の0.2%が加算され法定雇用率を1.8%にするものでした。さくら会の人たちはこれを前向きに活用しようと私を呼んで勉強会を行ったものです。勉強会から1年もたたないうちに高坂さんは会社の機械に巻きこまれました。その日私は新潟で看護師さんたちに医療事故をどう防ぐかという講演をしていました。高坂さんの弟さんが高坂さんの持ち物の中から私の名刺を見つけ、私に連絡してきました。私は帰京後急いで高坂さんの入院している日本医科大学多摩永山病院に見舞いに行きましたが、高坂さんに意識はなく、話はできませんでした。私がついてまもなく主治医が家族に「ご臨終です」と告げ、私は高坂さんの最期に立ち会い、見送ることができました。亡くなって4日後にお母さんや他の弁護士と一緒に会社の工場へ行き、機械の状況を写真にとり、社長に説明を求めました。調査に手間取りましたが2001年7月4日に会社と社長、副社長を相手として高坂さんの両親を原告として安全配慮義務違反を理由に損害賠償請求訴訟を提起しました。2003年12月1日東京地方裁判所八王子支部は被告らの安全配慮義務違反を明確に認めた原告勝訴の判決を言い渡しました。

【働く障害者の弁護団】

 高坂さんの亡くなった3ヵ月後の2000年6月、働く障害者の弁護団を結成しました。これは障害を持って働いている人たちが自分では言えないことを弁護士が代弁する役割を担うためです。働く障害者の弁護団は、メール、FAX、手紙、電話で相談を受けていて、今では障害をもって働く人たちの窓口として日本で最も利用されているものとなっています。北は北海道各地から南は沖縄県石垣島までそれこそ全国津々浦々から障害をもって働いている人たちの相談がとびこみます。のみならず、米国など日本の親会社の海外子会社で勤める障害をもった労働者からの相談もあります。働く障害者の弁護団は、高坂さんの志しをこんな形で発展させたのだという思いでいつも取り組んでいます。

【「精神薄弱」から「知的障害」へ呼称を変える力となって】

 柴田保之氏は、「『知的障害』という言葉の成立のかげに-ある知的障害者のリーダーの死」-という論文で高坂茂さんのことを次のように述べています(2001年7月15日発行 國學院雑誌102巻第7号)

「1998年9月、一つの法案が国会で採択された。『精神薄弱』という言葉に替わって『知的障害』という呼称を国内法のすべての条文に採用するという法律である。『精神薄弱』という言葉は、その言葉に対する当事者の不満が表明される中で、70年代には使用をためらう者も増え始め、90年代には、ほぼ死語同然となっていたが、法律上は延々と使用され続けてきたものである。こうした用語の言い換えは、『差別語狩り』の一種として見られたり、言葉の言い換えだけで実質的には何の変化もないととらえられることがある。しかし、この言い換えの背後には、用語を選択した主体が誰であるかということに関わって、重要な変化があった。それは、この呼称で示される当事者が、名付けられる客体から、名付ける主体へと変わったという事実である。しかし、残念ながらこのことはあまり知られていない。
 そして、このできごとに深く関わった一人の当事者は、私が援助者として関わっている町田市障害者青年学級という場で十数年にわたって親交を深めてきた高坂茂さんであった。この法案が通過した直後の活動日、私たちは、生活コースでこのことをともに喜び合った。『自分たちが変えたんだ』と誇りに満ちて語った高坂さんの表情は、今でも忘れることができない。日本の知的障害者の歴史に大きな一歩が記されたといっても過言ではなかろう。そして新しい知的障害者の歴史が刻まれるであろう21世紀はもうすぐそこに迫っていた。
 ところが、こともあろうに、その高坂さんが2000年3月28日職場の事故で亡くなるという信じられないような出来事が起こってしまったのである。事故は、悪い偶然が重なって起きたものともいえるが、また、防ごうと思えば防ぐことのできるものであり、会社の安全管理のあり方への疑問を拭い去ることはできない。貸しおむつのクリーニングという社会を土台から支える仕事に従事していた高坂さんの労働条件は、そのまま知的障害者のおかれた労働条件の苛酷さを物語るものである。総勢百六十名を数える私たちの仲間の中に、仕事中に手の指を機械で切断してしまった仲間が二名もいるということも忘れることはできない。
 いちはやく新しい時代の理念を先取りして、障害者青年学級や知的障害者の本人活動の中で目覚ましい活躍をしていた高坂茂さんの日常は、古い時代のままの苛酷なものだったといえよう。
 高坂さんの死という重い取り返しのつかない事実を前にして、私たちは何もなす術を知らないが、彼が胸の中で思い描きつつ、着実に一歩ずつ実現に向けて歩み出していた夢を、私たちが何らかのかたちで引き継いで行くことが、彼の死に報いる一つの道ではないだろうか。そして、何よりも、高い志しと厳しい現実に引き裂かれるようになりながら、たくましく生き抜いた高坂茂という人間が生きていたというかけがえのない事実を、同時代を生きる一人でも多くの人に知ってもらいたいと切に願う。」

【高坂茂さんと青年学級活動】
                  
(柴田保之氏の論文より)

 こうしためざましい活動を通して、様々な成果があがっている一方で、彼の仕事の状況は相変わらず厳しいものだった。そのような中で、以前から痛めていた腰の具合が悪化し、ついに入院するにいたったが、根本的な治療のできないま退院せざるをえず、腰痛をかかえながら仕事を続けるという状況になってしまった。だが、このことは、40代を迎えた自分白身の生活のことを改めて見つめ直すきっかけとなったようだった。
 その彼が、青年学級に弁護士を呼ぶ計画を立てたのは1998年度の活動である。そもそもはさくら会の活動で弁護士を呼んで『障害者雇用促進法』の改正についての学習会を開いたことがきっかけだったが、交渉まですべて自分でなしとげ、12月には障害者の労働問題等に詳しい清水建夫弁護士を囲んで非常に有意義な学習をすることができた。そして自立生活をめざす中で不動産屋に部屋を探しにいって断られた今田さんの話、免許を取りにいって断られたOさんの話など、現実の中で起こる様々な差別のことが直接訴えかけられた。そして、清水弁護士は、『当事者が声をあげないかぎり変わらない。もっともっと声をあげてほしい。』としめくくった。
 この活動の後、一人暮らしを始めることができた今田さんは、高坂さんの追悼集会で読み上げた追悼の辞の中で、この時の活動でふっきれたものがあって自分はアパート暮らしに踏み出すことができたというように語っており、この活動の意味の大きさを改めて痛感させられることとなった。
 腰の痛みに耐えながら、3月の成果発表会の劇の台本作りを高坂さんはやりぬいた。内容は、今田さんがアパートを借りに行って不動産屋に断られ、弁護士を伴って抗議にいくというもの。弁護士役を演じたのは高坂さんだった。

 弁護士役を演じてまもなく高坂さんは亡くなってしまいました。

【高坂茂さんが亡くなって8年】

 高坂茂さんは労働はきつかったが正規社員でした。クリーニング会社の社長も副社長も根は悪い人ではありませんでした。さくら会の仲間もそうですが当時は知的障害の人のかなりの人が一般企業の正規社員として働いていました。ところが高坂茂さんの担任教師であった横田滋さんの話では高坂さんが勤めていた頃一般企業に紹介した卒業生のほとんどは一般企業をやめているとのことです。その背景にはかれこれ10年に及ぶ労働冬の時代で、障害のない労働者もリストラで労働市場から追い払われるか、非正規雇用で劣悪な労働条件で働かされています。知的障害の労働者が真っ先に一般企業の労働市場から追い払われたのは自然の理です。知的障害者に働きやすい中小企業の経営が厳しいことも多いに影響していると思います。
 今国会で、障害者雇用促進法の改正案が審議されており、週20時間以上週30時間未満の短時間労働の障害者を雇用した企業は0.5人分を雇ったことにするように改正されようとしています。厚生労働省は授産施設など一般労働市場で働けなかった障害者を一般労働市場で働けるようにするための改正であると強調しています。しかし、これは障害者を正規労働者にしなくともパートでも法定雇用率にカウントしようとするもので、障害をもった労働者の労働環境を益々きびしくするものです。どうしても非正規雇用も法定雇用率にカウントするのであれば、正規雇用は正規雇用労働者の1.8%、非正規雇用は非正規雇用労働者の1.8%としてあくまで正規雇用枠は確保すべきだと思います。このことに関し、私は昨年12月6日の職業リハビリテーション研究発表会で論文を発表していますのでご覧下さい。
    [論文:法改正「パートも派遣も障害者雇用率に算入」の問題点]
 いずれにしろ、高坂さんが亡くなって8年、この間知的障害のある労働者の労働環境は一層厳しくなりました。一般労働市場で働く知的障害者が少なくなったためか、知的障害者の当事者の会も以前ほど元気がなくなっています。高坂さんと同じように、人に頼らず自らが社会に発信するリーダーがなかなか生まれてこないのが悲しい現状です。

 

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2008年3月22日 (土)

不信時代 企業や人信用できず家族を信用

【企業や人「信用できぬ」6割 「家族を信用」は97% 
                  政治・社会意識 本社世論調査】

                             (3月21日 朝日新聞 より)

 いまの日本には「信用できない企業が多い」と思っている人は60%。「信用できない人が多い」も64%で、企業や人への不信感が目立つ-朝日新聞社が全国3千人を対象に2月~3月上旬に郵送で実施した全国世論調査(政治・社会意識基本調査)で、世の中の信用・信頼が揺らいでいる実態が浮き彫りになった。政治家や官僚への信用は18%と低く、教師や警察は60%台。裁判でさえ72%だが、家族には97%の人が信用をよせている。
 度重なる食品の偽装問題の影響もあってか、「信用できる企業が多い」は29%にとどまり、「信用できない企業が多い」は60%を占めた。
 日本で売られている食品について「ほとんど信頼できる」は4%と少ないが、「ある程度信頼できる」は63%あり、「信頼」は合わせて7割近い。「あまり」「ほとんど」信頼できないは計30%だった。
 一方で、偽装問題などで一度信用を失った会社の製品を再び「買ってもよい」と思う人は38%で「買いたくない」が55%と半数を超えた。
 仮に食品会社に勤めていたとして賞味期限の偽装の事実を見聞きしたとき、「上司や同僚に相談する」は70%に達し、「警察やマスコミに通報する」も13%あった。「とくに何もしない」は10%と少ない。
 いまの世の中には「信用できる人が多い」と思う人は24%で、「信用できない人が多い」が64%にのぼった。「たいていの人は、他人の役に立とうとしている」と受け止める人も22%と少なく、「自分のことだけ考えている」が67%を占めた。
 生活と密接な関係がある12の項目を挙げてどれくらい信用しているかを聞くと、「信用している」と「ある程度信用している」を合わせた信用度は、①家族97% ②天気予報94% ③新聞91% ④科学技術86% ⑤医者83% と上位5位が8割を超えたが、政治家と官僚はともに18%で最下位だった。

<マナーの低下「感じる」9割 ごみ分別・電車内の通話・地面に座りこむ>
 他人との信頼を築くために「マナー」は欠かせない要素といえる。調査では、マナーについてさまざまな角度から聞いてみた。まず、日本人はマナーをよく守る国民だと「思う」人は28%にとどまり、「そうは思わない」が64%にのぼった。昔に比べて公共マナーの悪い人が増えたと「大いに思う」人は63%を占め、「ある程度思う」(30%)を合わせ9割以上の人が、マナーの低下を実感していた。
 マナーが悪いと感じるものを複数回答で選んでもらったところ「ごみを分別せずに出す」が72%で最も多く、「バスや電車内で携帯電話で通話する」「人が往来する地面に座りこむ」がともに68%で続いた。「地面に座りこむ」は20代と30代では一番多く挙げられた。「人前で化粧をする」(52%)行為には、男性よりも女性のほうが批判的だった。
 一方、刑事裁判の仕組みを大きく変える「裁判員制度」についても聞いてみた。もし裁判員に選ばれたら「必ず参加したい」人は10%しかおらず、「できれば参加したい」も26%と低い。20代~40代は参加意欲がやや高めだが、それでも半数に満たない。制度導入によって裁判への「信頼が増す」との回答も23%で、「そうは思わない」の69%を大きく下回った。死刑制度については「廃止したほうがよい」は8%で「そうは思わない」が86%と大半を占めた。

<家族を結びつけるのは 若者ほど「精神的なもの」>
 家族は信用できる存在-。ほとんどの人がそう受け止めるなか、では家族を結びつけているものは何か。5つの選択肢から1つを挙げてもらったところ、「精神的なもの」が39%とトップで、以下「血のつながり」33%、「一緒に暮らすこと」18%、「経済的なもの」3%、「名字や戸籍」2%の順だった。
 女性は「精神的なもの」が44%と高めなのに対し、男性は「血のつながり」が37%と最多で、「精神的なもの」は34%だった。
 年代による差も特徴的だ。「精神的なもの」は20代~30代の若い世代で55%を占め、特に女性は63%と際立つ。年代が上がるにつれて減る傾向にある。これに対し、「血のつながり」は逆に年代が上がると増え、40代~50代では男性35%、女性29%、60代以上では男性42%、女性40%でともに最多だった。
 ふだんの家庭生活にもう少しあったほうがよいと思うものを7つの言葉から1つ選んでもらうと、最も多かったのは「思いやり」で24%。次いで「会話」19%、「くつろぎ」15%、「笑い」9%、「自由」7%、「しつけ」5%、「親の権威」4%だった。
 目だった男女差はないが、ここでも年代による差が出た。「おもいやり」は高齢者ほど多く、60代以上では男女とも3割近い。「会話」も高齢層ほど多くなる傾向にあるといえそうだ。「くつろぎ」は女性で年代差が目立ち、60代以上では9%と少ない。一方、「笑い」は50代の男性で15%と高いのが目をひいた。

【私の意見】】Up63

<孤立する日本人と家族>
 朝日新聞が実施したこの世論調査は平均的日本人の意識をかなり正確に反映していると思います。政治家や官僚への信用が18%と低いのは当然のことで、私はむしろ健全なことだと思います。今の政治家や官僚を高く評価する結果が出る方が日本の民主主義の危機と言えます。
 「信用できない企業が多い」と思っている人が60%いるのも企業による不正行為がたびたび取り上げられている昨今の状況から仕方がない数字かなと思います。
 私が今回の調査結果の中で最も危惧するのは「信用できない人が多い」が64%を占め、その中で家族に対する信用度は高く「信用している」が74%、「ある程度信用している」が23%で、信用度計97%と群を抜いて高いということです。これだけを見れば日本人の家族は互いに信頼しあって言うことなし、ということにみえますが、実際はそうでないことは親子間、きょうだい間の殺人事件が毎日のように報道されることからも明らかです。
 今回の調査結果は、日本人の他人は信頼できないけれど“私たち家族は別、お互いに信頼しあっている”という意識を反映しています。信頼しあっている家族が集まって日本人の集団ができあがっているのですから他の家族集団に属する人々も信頼していい筈ですが、調査結果はそうではありませんでした。いまの世の中には「信用できる人が多い」と思う人が24%に対して、「信用できない人が多い」と思う人が64%を占めました。
 日本人が自分たち家族という閉鎖された小集団の中で孤立し、こぢんまりと生きている姿を反映しています。

<醒めた目で人や社会をながめる>
 調査結果は「たいていの人は他人の役に立とうとしている」と受け止めている人も22%と少なく、「自分のことだけ考えている」が67%を占めたとしています。マナーについて日本人はマナーをよく守る国民だと思う人は28%にとどまり、「そうは思わない」が64%にのぼり、9割以上の人がマナーの低下を実感しているとのことです。このような回答をする日本人のほとんどは“自分はマナーを守っている”と思っているのだろうと思います。
 政治家や官僚に不信感をいだいているにもかかわらず「政治にかかわりたい」と思う人は25%で、「かかわりたくない」人が68%を占め、参加意識は高くないという結果も出ています。
 日本人の多くに共通することは“自分は潔く正しく生きて生きたし、これからもそうでありたい。他のひとはマナーが悪いけれども自分と家族は別。政治なんてあんなうす汚れた世界にかかわって自分も同じように見られるのは真っ平ご免。好きな人がやればいい”と醒めた目で人や社会をながめています。参加意識が高くないので、日本人の政治的・社会的成熟度はいつまでも低く、小泉劇場のようなものを仕掛けられると単純に乗せられてしまいます。

<無表情な日本人>
 私はアジアにしろ、ヨーロッパにしろ、米国にしろ外国から帰って地下鉄に乗っていつも思うのは、なんて日本人は表情のない民族なのかとがっかりします。日本人は世界で一番安全なところに住み、必要なモノはあふれています。会社など自分の属している組織からはずされないかぎり、他者と交わることなく生きていけます。自分の所属する集団(会社や学校)での交わりはたとえ不本意であったとしても避けることはできませんが、その集団以外の人には無関心・無表情でも生きていけます。他者のために役立っていると思えるときに人は人としての喜びを感じるものですが、自分と自分の家族のためだけに生きても人としての喜びはごく狭いもので終わってしまいます。

<4歳の男の子から「おはようございます」とあいさつをされて赤面>
 そういう私も平均的日本人の一人で、ご近所の人に会っても、向こう3軒両隣位は「おはようございます」とあいさつしますが、それ以外の人とは醒めた目をして知らぬ顔して通りすぎています。今まであいさつしなかった人に、突然あいさつするのも変なようで、あいかわらずよそよそしい人間関係が定着しています。
 ある日家を出て都営地下鉄に乗るために坂をくだりかけたところ、これまで会ったことのない30代はじめ位のお母さんと4歳位の男の子が居ました。その横を私が無言で通りすぎようとしたところ、その男の子が大きな声で「おはようございます」と私にあいさつをしました。私はとまどいながら「おはようございます」と答えましたが、4歳の男の子に教えられたようで恥ずかしくなりました。冷め切った日本人同士の人間関係はまず身近なところからという教訓のように思いましたが、その後も私が他者とのコミュニケーションを図ろうと特別に改善・努力をしたわけではありません。ですから、正直なところ私もあまりえらそうなことは言えないのです。

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2008年3月16日 (日)

JRにも旧国鉄にも労働者敗訴の裁判

【JR不採用 国労組合員ら敗訴 東京地裁 「損賠請求は時効」】

                  (3月13日 日本経済新聞 より)

 国鉄分割・民営化に伴いJRに採用されなかった国労組合員ら35人が不採用は組合差別が原因として、国鉄清算事業団を引き継いだ「鉄道建設・運輸施設整備支援機構」に損害賠償を求めた訴訟の判決が13日、東京地裁であった。中西茂裁判長は「損害発生はJRに採用されなかった1987年。訴えは時効(3年)」として原告の請求を退けた。
 原告はJRを相手取った訴訟が最高裁で敗訴した2003年12月以降、旧事業団を相手に賠償請求訴訟を起こした。同裁判長は「事業団ではなくJRを相手にしたのは原告らの選択の結果。時効までに賠償請求できたのに権利を行使しなかった」と指摘した。
 判決によると、原告は87年の国鉄分割・民営化の際、JRへの採用を希望したが採用候補者名簿に登載されなかった。87年4月に旧国鉄清算事業団に移り、90年4月に解雇された。
 JR不採用訴訟では、別の国労組合員と旧全国鉄動力車労働組合が旧事業団を提訴。東京地裁判決はいずれも時効を認めず、同機構に500万~550万円の賠償を命令。双方が控訴している。

【私のコメント】Up63

 国労組合員が原告となりすでに第1審判決のあった鉄建公団訴訟については、このブログの2008年2月18日の記事2007年11月8日の記事で記述しました。日経新聞に記述されていますように、同種の事件について過去2つの判決があり、被告の時効の主張を認めず原告らの請求の一部を認めました。ところが今回は組合差別には踏み込まず、分割・民営化(1987年4月)の3年後には請求権が時効で消滅したという理由で労働者側の請求を全く認めませんでした。徹底した差別を受けて鉄道の職場から追い出された労働者に対し、けんもほろろの判決です。21年間苦しまされ続けた労働者や家族に対する配慮が微塵もない不当判決です。この事件にあたっても私は原告側常任弁護団の一員で、原告団は控訴の上不当判決の取消しを求めていきます。

【判決に登場する中曽根康弘元総理と橋本龍太郎元運輸大臣】

 この判決は国労壊滅の中曽根総理(当時)の意図を認定しながら、橋本運輸大臣(当時)の発言を引用して中曽根総理の不法な意図を打ち消すという、主・従逆転した珍妙な論法を次のとおり展開しています(判決37-39頁)

 「次に、国鉄改革関連8法が国労組合員の団結権を侵害するものか検討する。証拠(甲13.226)によれば、雑誌『AERA』平成8年12月30日号や、雑誌『文藝春秋』平成17年12月号に、中曽根元総理がインタビューを受け、国鉄改革を振り返り、『総評を崩壊させようと思ったからね。国労が崩壊すれば、総評も崩壊するということを明確に意識してやったわけです』『国鉄民営化は、国鉄労組を崩壊させました。国鉄労組の崩壊は総評の崩壊、つまり社会党崩壊につながります。だから国鉄改革は、日本の基盤に大きな変革を与えたんですよ。もちろん私はそれを認識して実行に移しました』と発言している記事が掲載されていることが認められ、中曽根元総理が、国鉄改革が国労崩壊につながることをも意識して国鉄改革に臨んだことは明らかである。しかし、他方で、証拠(甲141、287、454(添付疎甲415))及び弁論の全趣旨によれば、国鉄改革関連8法が審議された第107回国会日本国有鉄道改革に関する特別委員会において、橋本元大臣が、『新たな会社の職員は、国鉄職員の中から新会社の設立委員が提示する採用の基準に従い新規に採用される仕組みとなっておるところでありまして、この場合においても所属組合等による差別があってはもちろんならないでありましょう。』『あくまでもこの基準というものは設立委員などがお決めになるものではありますけれども、私はその内容について、所属する労働組合によって差別が行われるようなものであってはならないと思います。』と答弁しているほか、第107回国会日本国有鉄道改革に関する特別委員会(参議院)において、昭和61年11月28日、『各旅客鉄道株式会社等における職員の採用基準及び選定方法については、客観的かつ公正なものとするよう配慮されるとともに、本人の希望を尊重し、所属労働組合等による差別等が行われることのないよう特段の留意をすること』との附帯決議がされていると認められるように、国鉄改革関連8法が、国労や国労組合員を初めとしていかなる労働組合に対しても不利益取扱いをしないことを前提として制定されたことは明らかである。現に、国鉄改革関連8法の各条文の内容をみても、特に国労や国労組合員に対する差別意図を窺わせる条文も存在しない。 (中略) 
 以上によれば、国鉄改革関連8法自体が、国労の団結権を侵害するものであるともいえない。
 したがって、国鉄改革関連8法が憲法に違反する法律であり、これらの法律に基づいて行われた本件解雇が無効であるとの原告らの主張は採用できない。」

 本件で重要なことは、橋本運輸大臣が当時どのように述べたか、附帯決議がどうであったかということよりも、現実に組合差別があったのか否かなのです。ところがこの判決はその最も重要な部分についての判断をすることなく時効で労働者の請求を切り捨てました。
 故橋本龍太郎氏は当時中曽根氏の意図を知らず、本気で組合差別があってはならないと考えていましたが、その後実態を知り、ピエロの役割を演じさせられていたことを、大変後悔していたと聞いています。

【JRに対しても旧国鉄に対しても国鉄労働者の請求を認めない裁判所】

 鉄建公団訴訟の提訴が2002年で、今回の事件の提訴が2004年です。採用差別をされたのが1987年4月1日であり、解雇されたのが1990年4月1日ですから採用差別から今日まで21年が経過しています。どうして今頃と思われるかもしれませんが、この間国労や国労組合員は闘い続けてきました。1987年4月1日付で国鉄は国鉄清算事業団となり、鉄道事業はすべてJR各社に移行しました。組合差別によって不採用となった労働者はJR各社を相手に採用を求めて各都道府県の労働委員会に救済申立をしました。すべての全国の都道府県労働委員会は1988年~1989年に組合差別を認定しJR各社に原告ら組合員を採用するよう命令を出しました。これを不服としてJR各社は中央労働委員会に各地方労働委員会の命令の取消しを求めましたが、中央労働委員会は同様に組合差別(不当労働行為の存在)を認め、公正な選別を行うよう各JRに命じました。ところがJRは中央労働委員会の命令に従わず、これの取消しを求めて東京地裁に命令取消しの行政訴訟を提起しました。驚いたことに東京地裁は採用名簿を作成したのは旧国鉄であり、別の法人であるJR各社は不当労働行為の責任を負う主体ではないとして命令を取り消しました。しかし、橋本運輸大臣は国会で、国鉄とJR設立委員の関係について「国鉄は設立委員の採用事務を補助する者で民法上の準委任に近いものである」旨繰り返し答弁しています。先に引用したと同様に、本判決が橋本元運輸大臣の発言を立法者意思として重視する立場をとるならば、国鉄の採用差別は当然JR各社の採用差別となります。そもそも採用差別をした旧国鉄の幹部たちは国鉄清算事業団ではなく、JR各社の幹部となり、常務、社長、会長と出世階段を昇りつめ、JR各社を仕切ってきました。その上、国鉄清算事業団はJR各社の100%株主です。判例法上確立している法人格否認の法理からしても旧国鉄の不当労働行為はJR各社の不法労働行為に該当することは明らかです。ところが、東京地裁は形式的に法人格が別であることを根拠にJR各社の責任を認めず、それは東京高裁、最高裁でも踏襲されました。

【最高裁 2003年12月22日判決】

 JR採用差別事件で2003年12月22日最高裁第一小法廷判決は3対2の僅差で中労委の救済命令の取消を認めた原審判決を支持し、次のように述べて中労委と組合側の上告を棄却しました。

 「(国鉄)改革法は、設立委員自身が不当労働行為を行った場合は別として、専ら国鉄が採用候補者の選定及び採用候補者名簿の作成に当たり組合差別をしたという場合には、労働組合法7条の適用上、専ら国鉄、次いで事業団にその責任を負わせることとしてものと解さざるを得ず、このような改革法の規定する法律関係の下に置いては、設立委員ひいては承継法人が同条にいう『使用者』として不当労働行為の責任を負うものではないと解するのが相当である。」

 ところで最高裁の多数意見も、本来この判決に記載不要であるにもかかわらず、旧国鉄とこれを承継した清算事業団の責任についてわざわざ次のように言及しています。

 「承継法人の職員に採用されず国鉄の職員から事業団の職員の地位に移行した者は、承継法人の職員に採用された者と比較して不利益な立場に置かれることは明らかである。そうすると、仮に国鉄が採用候補者の選定及び採用候補者名簿の作成に当たり組合差別をした場合には、国鉄は、その職員に対し、労働組合法7条1号が禁止する労働組合の組合員であることのゆえをもって不利益な取扱いをしたことになるというべきであり、国鉄、次いで事業団は、その雇用主として同条にいう『使用者』としての責任を免れないものというべきである。」

【改革法の合憲解釈をする上で、最高裁多数意見も不当労働行為の責任を負う者が誰もいないという「怪談」で終わらせることができなかった】

 ジャーナリストや労働法学者は国鉄改革法23条の形式的な文言解釈に終始した1998年5月28日の東京地裁判決に対し、「JR採用差別事件は、不当労働行為の責任を負う者が誰もいなくなるという『怪談』で決して終わらせてはならない」と指摘しました(中野隆宣「法の番人」週刊労働ニュース1998年7月6日号。西谷敏「国鉄改革とJRの使用者責任-東京地裁民事第11部・第19部判決をめぐって-」ジュリスト1998年10月15日号)。上告審では改革法の合憲性が上告理由で問題とされました。さすがの最高裁多数意見も改革法23条の合憲判断をする上で不当労働行為の責任を負う者が誰もいなくなるという「怪談」で終わらせることができず、「国鉄、次いで事業団の『使用者』としての責任を免れない」と断じざるを得なかったのです。

【怪談が現実に登場】

 ところが今回の判決はJRも旧国鉄を承継した本件被告も責任を負わないという怪談を、時の経過を大上段に振りかざして堂々と登場させました。しかし旧国鉄は不採用を決めたのはJRの設立委員であるとして自らの責任を否定し続け、国家機関(国労委・地労委・中労委・地裁・高裁・最高裁)の判断自身も2転3転しており、21年前にお前たち労働者が旧国鉄を訴えなかったのだから、お前たちの責任だということが通用すれば労働者にとって救われる余地が全くありません。
 私は2005年8月10日発行の労旬1605号で「この裁判で問われているのは日本の司法そのものである」と論述しました。
   (論文:「不当労働行為と1990年解雇の無効」)
 私たちは、国家の行為を疑う姿勢を欠く日本の司法を、国民の基本的人権を守る司法に変えるため、例え時間がかかっても根気よく取組んでいかなければなりません。

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2008年3月10日 (月)

死にたい人間なんていない

【呼吸器の母 12年の介護
           川口有美子さんと母の島田祐子さん】

                      (3月7日 朝日新聞 より)

川口有美子(かわぐちゆみこ)(45)は夫の転勤でロンドンに移り、7歳の娘と2歳の息子の子育てに夢中になっていた。95年6月、電話を受ける。東京の母、島田祐子(しまだゆうこ)からだった。
  「……ALSって、変な病気になっちゃったみたいなの」
 医師は呼吸器をつければ生きていけるという。でも、介護がすごく大変だから、どうしたらいいかしら。母の涙声を聞いて川口はとっさに答えた。「いいじゃない、呼吸器をつけて生きれば」
 天窓から昼下がりの日差し。庭のアカシアが風に揺れていた。その日がすべての始まりだった。

 ALSは進行性の難病だ。筋萎縮(いしゅく)性側索硬化症。川口が家庭向けの医学書を開くと、「運動神経が侵され、あらゆる筋肉が萎縮し、さいごは呼吸もできなくなる」。絶望的な言葉がならんでいた。宇宙物理学のホーキング博士(66)もこの病だった。
 その夏に帰国、介護生活が始まった。母の祐子は当時59歳。包丁がもてなくなり、起きようとして布団に倒れ、風呂場でタイルの目地につまずいた。舌がもつれ、うまく話せなくなった。出版社をやめた妹の千佳子(ちかこ)(42)や父と交代で付き添う。
 認知症の祖母の介護で苦労した祐子は「呼吸器をつけてまで生きたくない」。でも別れるのは悲しい。つけなければ死ぬ。つけるかどうか。決められぬまま12月、体調が急変し、救急車で運ばれた。
 「助けてっ」。集中治療室で祐子は娘たちにいった。医師は気管切開して呼吸器をつけた。
 2カ月後、自宅にもどった。ベッドわきに呼吸器や痰(たん)の吸引機。シュポーという呼吸器の音。家族は心配で部屋から出られない。緊張の連続。仮眠は1、2時間。
 やがて祐子に気力がもどる。話せないかわりに、50音の文字盤を祐子が目でさし、家族が読み取る。短歌もはじめた。
 96年秋、総選挙があった。投票は自筆でないと認められない。祐子は「そんなの、おかしい!」と、千佳子に代筆させて日弁連に嘆願書を送る。ベッドの上から、投票できる日を待っています。のちの制度改正につながる。
 さらに病状は進んだ。文字盤をさす目が動きにくくなり、一日に読みとれるのはわずか数文字に。ある日、「し・に・た・い」。
 そんなに死にたいなら、いっそ……。そして私も。「妹も私も何度も母を殺そうとしましたね。かわいそうで」と川口。患者家族らが集うALS協会の橋本操(はしもと・みさお)(54)に、つらさ、切なさを訴えた。

【死にたい人間なんていない 橋本操さん】 (3月7日朝日新聞続き)

 橋本もまたALS患者である。千葉の漁師の娘に生まれ、27歳で結婚、32歳で発病したとき5歳の娘の母だった。39歳で呼吸器をつけ、わずかに動く唇と目の動きをヘルパーが読みとって伝える。
 「根性がない」と橋本。川口はむっとする。「母を根性なしといったんだと誤解して。でも、あとで根性がないのは私のことだとわかった」。母はほんとうに死にたいのかしら、と泣くと、橋本は「バカな! そんな人間はいない」と目と唇でしかった。
 橋本は都の難病支援制度やボランティアを使い、家族以外が介護するシステムをつくっていた。それを学んだ川口も、介護者を養成して派遣する事業を起こす。日本独自の「サクラモデル」と海外に知られるようになる。
 99年、祐子はついに目も動かなくなる。意思を伝えるすべがなくなった。川口は、祐子が仏壇に遺書を残していたのを思い出す。封筒をあけると、よろけるような字で「人生は楽しい」。
 楽しい? どんなにつらくても人生を楽しんで、という励ましに思えた。ふっと肩の力がぬけた。死なせたほうが、という呪縛から解き放たれ、救われた。
 07年9月、祐子は逝った。71歳。川口は母のベッドに大の字になった。12年の間、ここがママの居場所だったんだ。天井をずっとみつめた。

 実は、ALS患者の8割以上が呼吸器をつけずに亡くなっていく。多くが家族に迷惑をかけたくないと気兼ねして。そんなことをしないですむ世の中にしたい。
 だれにもいずれやってくる、その日。その日まで、生きる。

【私の意見】Up63

【生まれながらに呼吸器をつけた赤ちゃん】

 私は川口有美子さんも橋本操さんも大変親しい知人です。お二人とも尊厳死の法制化に反対していて、いろんな会合でお会いします。川口さんの話では、アメリカではALS患者が呼吸器をつけて生きるという発想がほとんどなく、ALSになると呼吸困難になって死ぬのは仕方がない、定められた運命という考えが支配的だそうです。ですから、ALS患者について日本のような患者運動は起こらないとのことです。
 生まれながらに呼吸器をつけないと生きていけない赤ちゃんの親の方たちがつくっているバクバクの会というのがあります。あるお母さん(Aさん)が生後3ヵ月のときから呼吸器をつけて生きている5歳の娘(Bちゃん)が日々成長し目で喜びや悲しみを伝えてくれるのが嬉しいと報告していました。その後7歳頃この娘さんは亡くなりましたが、娘とともに生きることができた7年をかけがえのないものとしてあらためてつづっていました。
 Aさんの話では、以前はBちゃんと同じ難病の赤ちゃんが生まれると医師は親の意見を求めるまでもなく当然のこととして呼吸器をつけていました。ところが最近では「治療法はない。お子さんは呼吸器をつけてもほとんど自由に活動できないし、長く生きることはできない」ことを告げた上で、呼吸器をつけるかつけないかの選択を親に迫るそうです。現代医療はBちゃんの7年の人生、Bちゃんとともに生きたAさんの人生を無意味と決め付けているのに等しいように思えてなりません。

【親亡き後の難病の子どもや知的障害の子どもの将来】

 がん患者の女性Cさんは70歳を越え、がんを宣告され死期も告げられました。40歳の難病患者の息子(D君)の将来を案じCさんが私のところに相談に見えました。夫の残した財産がそれなりにあり、経済的にはかなり恵まれた母と子ですが、Cさんはご自分が亡くなったあとのD君のことをとても心配しています。信託銀行から遺言信託等の提案を受け、CさんはD君を信託銀行と遠くの親戚に託すことを考えていました。私は川口さんにD君のことについて意見を聞きました。川口さんは開口一番、信託銀行や親戚に頼る前にD君は自分で生きることを考えた方がいいのではないですかと言いました。川口さんの話を聞いてなるほどD君の場合には自分の住む自治体にヘルパー等を頼めば今住んでいる地域で充分に生きていけると思いました。その後D君に会いましたが、D君は意識も考えもしっかりした男性で、今から他人に頼る人生を選択をする必要はないことを実感しました。
 子どもに障がいのある親の方、とりわけ知的障がいのある子どもの親の方は、親亡き後をとても心配しています。これまで多くの親は子どもを施設に入所させることで一安心していました。しかし施設での生活は食べるには困らず安全ですが、人らしい生活とは言えないのが現実です。障がいのある人もない人も地域で人間らしく生きていくためには国や地方自治体の強力なサポートが不可欠ですが、障害者自立支援法などの法制度や終末期医療についての国の考え方は、サポートを削減する方向に大きな流れを形づくっています。この流れを打ち砕くためには、私たち市民の側で強固なサポート体制を築き、実践によって打ち砕くしかないように思います。

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2008年3月 2日 (日)

自閉症児 校内転落事故、5月29日判決へ

【両親司法判断を求めて】

 2004年11月26日に発生した自閉症児校内転落事故について、自閉症児(A君)と両親(B氏・C氏)が原告となり、小金井市、担任教師(D氏)及び校長(E氏)を被告として、東京地方裁判所八王子支部に2006年11月1日に提訴しました。これは民事事件(損害賠償等請求事件)ですが、その審理が去る2008年2月28日結審され、5月29日午後1時15分に判決が言渡されます。
 私はこの事件に原告代理人として他の5名の弁護士とともに深くかかわってきました。この事件では単に事故発生というだけでなく、真実そのものが教師らによって歪められ事実と異なる説明がされていることを私たちは訴えています。A君の両親はA君が在籍していましたし、学校側を相手に法的手続をとることなど思ってもいませんでしたが、すべてをA君の責任にし、事故の発生の事実関係をもごまかそうとした対応にやむをえず法的手続きをとりました。A君が将来事故の後遺症で苦しむこともあり得ます。両親は真実は何かを司法によって判断してもらうことがA君に対する親の義務と思うようになりました。
 私は私のまわりにも教師の方がたくさんいて、“今の先生は気の毒だな”と思うことが少なくありません。教育委員会、校長、PTA、保護者、生徒の板ばさみで、うつ病を発症する教師も少なくありません。“うつ病教師のための弁護団”を特別につくろうかと思うぐらいです。しかし本件をみると学校関係者の障害児に対する理解度や障害児と向きあう姿勢に多いに問題があることを実感しました。許せないと思われる点も多々あります。

【自閉症児に対する威かく教育の過ち】

<D教師は十分な担任歴があった>
 担任Dは新任の時からこの小学校の心身障害児学級の担任を5年間続けていました。A君についても入学以来3年間担任を続けていました。担任といっても受けもつ生徒の数は少なく、事故の起きた2004年度はA君を含めて3名を担任しているだけですので本来A君の障害特性が十分理解できている筈です。したがってA君の障害特性にあわせた教育ができる筈です。

<自閉症の「3つの障害特性」>
 自閉症は、脳の障害によるもので、乳幼児期の早い時期に症状が明らかになる発達障害の一つです。自閉症の児童・生徒には、さまざまな障害特性がありますが、共通するものとして、①社会性・対人関係の障害「対人関係がうまくもてない」、②コミュニケーションの障害「コミュニケーションがうまくとれない」、③強いこだわりや固執的な行動「独特の行動パターンをもつ」などとされています。

<A君について>
 A君はとてもかわいらしく活発な小学生です。いろんなことに興味をもって学校でも職員室や他の教室をのぞくことが時々あります。A君は自分で自分の気持ちや考えを言葉で表現することが十分にはできません。

<事故発生の経過>
 ① この事故が起きたのは、2階の体育館で体育の授業が始まる前のときです。体育館には4つの倉庫がありました。倉庫1はバレーボールなどが入っていて生徒は自由に出入りできました。窓にも生徒の転落防止のためのフェンスがつけてありました。倉庫2~4はいろんな道具が置かれていて普段は生徒が出入りすることは余りなく、転落防止のフェンスもありませんでした。A君は倉庫1に入ったあと、倉庫2に入りました。

 ② A君が倉庫2から出てきたとき、D教師はA君に「倉庫に入ってはいけません」と注意しました。ところがA君は次に倉庫3に入りました。倉庫の扉は自動的に閉まるようになっていました。D教師は扉を開け「倉庫に入ってはいけないと言ったでしょう。そんなに入っていたければ入っていなさい。」と言って強く怒った態度で扉を閉めました。A君は悲しそうな顔をしてアーアーと言って手を前にさしだす仕草をしましたがこれを無視しD教師は怒っているという態度を示すことを意図して扉を閉めました。

 ③ D教師は扉の前に立っていたとのことですが、扉を閉めて20~30秒たってもA君は出てこず、反応がありませんでした。D教師が扉を開けたところA君の姿が見えず、窓が開いていました。D教師はあわてて窓の下を見ると生徒の上履きが片方落ちており、A君らしい泣き声が遠くで聞こえました。D教師は1階におりてその上履きを拾ったところA君の名前が書いてありました。D教師が再び体育館にもどったところA君が保健室にいるという連絡がありました。A君はあごを強打し歯を6本折って体育着の前は血だらけで泣いていました。D教師が抱っこするとA君は片方上履きをはいていませんでした。A君が体育館下を泣きながら血に染まった体育着で走っているのを給食調理員の女性や用務主事の男性が目撃していました。
 
 ④ A君はD教師により倉庫内にとじこめられ、混乱状態となって窓から脱出しようとして大きなケガをしたことは明らかです。東京都教育委員会発行の「自閉症児の障害特性に応じた指導の考察」という教師向けのパンフレットに「くどくどした叱責や、感情的な叱責は児童・生徒にとって混乱のもとになり、子どもへの適切な指導とは言えません」と記述されています。D教師は感情的な叱責をした上、A君を倉庫に閉じ込めたのですからA君が混乱するのは当然です。

 ⑤ その上、倉庫2からA君が出てきたときのD教師の「倉庫に入ってはいけません」の注意はA君には何のことかわからず、「注意」になっていません。A君は倉庫という抽象的な言葉が理解できません。倉庫1は入ってよいのに抽象的に「倉庫に入ってはいけません」と言われても何のことがわかりません。教師としては指や腕などを使って×印をつくるなどして「この倉庫はダメ」ということを具体的に指導しなければA君には伝わらないのです。ですから、倉庫3に入ってもA君はD教師に逆らったという意識はありません。それなのにD教師が怒って扉を閉めればA君が混乱を起こすことは当然です。転落防止のフェンスのない倉庫に数十秒も閉じ込めておくことが危険であることは教師として当然認識している筈です。D教師としてはA君を安全・確実に倉庫の外に出すことをまず第一に考えなければなりません。扉を開けたまま“A君、さあ出てきて体操をしましょう”と声かけをするべきだったのです。D教師の対応は自閉症児に対する「注意」でも「指導」でもなく、教師が自ら危険な状況を作り出したもので、自閉症児教育についてまちがいにまちがいを重ねたと言えます。

【教師が事実と異なる説明をする等学校側の態度が悪い特殊な事件】

<教師対自閉症児>
 判例法上、学校事故について、学校側の責任が認められた事例はたくさんあります。それらは教師対生徒が対峙するというよりも、児童・生徒間同士の悪ふざけやけんかで児童・生徒の片方が怪我したような事例で、教師の不作為を不注意があったとして学校側の責任を認めています。最近では最高裁が雷に生徒がうたれて死亡した事故で教師の責任を認めています。判例は教師、校長に「生徒・児童の身体の安全について万全を期すべき高度の義務」があるとしています。これら他の事案と比べると本件は教師と小学校3年生の自閉症児が直接対峙して教師自身が発生させた事故です。教師・学校側に弁解の余地はないと思います。

<教師による事実と異なった事故説明>
 ところが本件について更に容認できないのは、教師が事故発生状況について事実と異なった説明をしたということです。D教師は「扉を閉めてドアの外に立っているとガシャンと音がした。A君が扉から外に出て行った。倉庫3内では一輪車のスタンドが倒れ一輪車が散らばっていた。A君は一輪車からとびおりるときにけがをした」という事実と明らかに異なる説明を校長・副校長・A君の保護者らに説明し、保護者会でも平然と事実と異なる説明をしています。D教師はA君が事故状況を自分で話せないことを知っていますから、平気で事実と異なる説明を多くの人の前で行ったと思わざるを得ません。 

<警察の捜査>
 たまりかねてA君の両親が事実を調べてもらうため、警察に被害届けを出しました。警察が実況見分をした結果、D教師の述べることは事実を異なることが明らかになりました。D教師は警察の実況見分に立ち会ったのち、これまでの説明を一度訂正しました。しかし、刑事事件としては起訴までは至らなかった以降、再び倉庫内の転倒を言い出し、裁判ではA君が自分の自由意思で行動し、ケガをしたのだから因果関係がないとまで主張しています。

【学校に根強い障害児に対する差別意識】

 E校長は倉庫2、倉庫3における「D教師の注意・指導は正しかった」「D教師はまじめで、やさしい将来ある青年である」として絶賛しています。E校長は事故の発生場所や発生原因は特定できない旨の報告書を小金井市教育委員会に提出していますが、その第1の理由はA君が事故状況を話せないことにあるとしています。A君が話せないことをいいことにD教師は事実と異なる事故発生状況を平然と多数の前で説明しました。A君が多少でも話せればこんなことはできなかったと思います。A君には何の非もないのに、教師の「注意・指導に従わない聞きわけのない生徒」というシナリオが学校側でつくりあげられた事件であることを私たちは裁判所に訴えています。障害児の両親が学校側を相手に訴訟を提起することは子どもを人質にとられているような状況の下ですから決してできることではありません。多くの親は泣き寝入りしています。この事件の判決が障害児や障害児の親たちに勇気を与え、学校関係者に猛省を促すような判決であってくれるよう祈ってやみません。
 

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