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2008年2月25日 (月)

川上未映子と芥川賞受賞作「乳と卵」

【乳(ちち)と卵(らん)】

 8月の暑い日に39歳の姉巻子が豊胸手術のため初潮まじかの娘緑子をつれて独身のわたしの東京のアパートにやってくる。巻子は十数年前に男と別れ、緑子は物心ついてから自分の父親と同居したことがない。巻子は豊胸手術のことで頭がいっぱいである。緑子は同級生の話から初潮を厭なことだと思っている。最近では巻子との対話はなく巻子の話しかけに対し緑子はノートに書いて自分の意志をつたえている。巻子の豊胸手術には“うそのものなんかいれておっきい胸にすんなんて信じられへん”と批判的である。ただ、大阪の場末のスナックで働いて疲れきっている巻子をいとおしいという気持ちをもっている。お金もないのに東京までやってきた2人をわたしはやさしくそっと包んでやりたい。寝ているときわたしにいつもより早く生理がおとずれ、シーツに血の痕が大きく残ってしまい、あ、めんくさいと思う。翌日巻子は一人で豊胸手術のコンサルタントを受けに銀座に出て行く。5時に戻ってくると言っていた巻子は6時を過ぎても7時を過ぎても9時を過ぎても戻ってこない。わたしと緑子がもしかしてと心配していると突然巻子が帰ってくる。巻子は酔っぱらっている。「緑子のおとんとこに行ってたんよ」と言ってうつぶせになる。緑子が台所にいるところに巻子が起きてきて緑子が口を開かないことに絡みはじめる。緑子は突然“お母さん”と大きな声を出して「お母さん、ほんまのことをほんまのことをゆうてよ」と搾り出すような声でいった。巻子は、はははははっはっはと大きな声で笑い出した。緑子は卵を自分の頭に叩きつけて砕きながら「お母さんは、なにがいいの、痛い思いして」「あたしを生んで胸がなくなってしもうたなら、しゃあないでしょう、それをなんで」「あたしはお母さんが大事、でもお母さんみたいになりたくない」巻子は体を震わせて泣き続ける緑子に「緑子、ほんまのことってね、ほんまのことってね、みんなほんまのことってあると思うでしょ」「でも緑子な、ほんまのことなんてな、ないこともあるねんで、何もないこともあるねんで」と言いながら巻子はハンカチを取り出して緑子の頭についた卵を拭って、ぐしゃぐしゃになった髪の毛を何度も耳にかけてやり、ずいぶん長い時間を黙ってその背中をさすり続けた。2泊して2人は大阪に帰った。2人を送って家に着くとわたしは急に眠気がやってきた。目が覚めて浴室に入って暑い湯を浴びながら、顔以外の全部を鏡に映してみた。夕方の光と蛍光灯の光が交差する湯気のなか、どこから来てどこに行くのかわからぬこれは、わたしを入れたままわたしに見られて、切り取られた鏡の中で、ぼんやりといつまでも浮かんでいるようだった

【女の体って何なの】

 「乳(ちち)と卵(らん)」という題名にぎょっとする感がありましたが、読み終えて作者が女性として女の体って何なのと問いかけたものなのかなと思いました。女性の体といっても男性との恋愛とは切り離していわば生物としての女の体を3人の女性の3日間の動きを通じて浮きぼりにしています。初潮や卵子や乳房のことが文章の大半を占めていて、多くの女性にとって楽しい小説とは言えないかもしれません。男性にとってもワクワクする“女の体”の本ではありません。

【地に足のついた作家】

 文芸春秋3月号に掲載された受賞者インタビューをあわせて読んで、私は川上未映子氏(31歳)はなかなか地に足の着いた作家だと思いました。川上氏は歌手でもあり、大阪の北新地の一流クラブのホステスでもあったということから、派手な人生を歩んできた人物かのように一部マスコミではとりあげられていましたが、インタビュー記事からどんな場面でも生まじめに生きてきた人物だろうと思いました。巻子の働いているスナックと川上氏が勤めていた北新地のクラブでは客層もホステスとしての収入も全く違っています。大阪の裕福でない家庭に育った川上氏(本人談)はラグビーの代表選手であった高校生の弟を明治大学に進学させるために北新地でホステスをします。このような話は昔はよくありました。えっ今時と私も思いました。しかし川上氏の場合は、けなげな姉が弟のために犠牲になるのではなく、姉は姉でその後小説家として大成するのですから見事です。31歳という年齢は明治、大正、昭和の作家では決して若い登場ではないのですが,現在ではとても若い作家の部類です。川上氏にとり、大阪の場末でボロ雑巾のようにすり切れて働く巻子は、自分と等身大の人物であり、決して高いところからあわれむような目で見ていません。31歳にしては川上氏の歩んだ人生の幅の広さと哲学等を究めたいという意欲から今後どのような作品を発表するのか、楽しみな人材と思いました。

【文学界の登竜門の公正さ、透明さ】

 私は芥川賞にしろ、直木賞にしろ最近の小説はほとんど読んでいませんが、今回「乳と卵」を読んでみて、また川上氏の人となりを知って、文学界における選抜制度は結構公正で透明なのかなと思いました。歌舞伎の世襲制、お茶や踊りの家元制と比べると文学の世界では力さえあれば一気にトップに立つことができるのかなと思いました。勿論どの世界でも現実にはいろいろゴタゴタはあるのでしょうが。

【石原慎太郎氏・宮本輝氏の選評】

 川上氏に最も手厳しい評価をしたのは石原慎太郎氏のようです。参考までに石原氏の選評をご紹介します。

 受賞と決まってしまった川上未映子氏の『乳と卵』を私はまったく認めなかった。どこででもあり得る豊胸手術をわざわざ東京までうけにくる女にとっての、乳房のメタファとしての意味が伝わってこない。前回の作品の主題の歯と同じだ。一人勝手な調子に乗ってのお喋りは私には不快でただ聞き苦しい。この作品を評価しなかったということで私が将来慙愧することは恐らくあり得まい。

 宮本輝氏の選評は次のとおりです。

 受賞となった川上未映子さんの作家としての引き出しの多さが『乳と卵』によってはっきりした。その引き出しのなかに転がっているものがガラクタであればあるほど、作家としての資本は豊かだということになる。前作のいささかこざかしい言葉のフラグメントは『乳と卵』では整頓されて、そのぶん逆に灰汁が強くなった。女性が書く小説の素材としては、ある意味で陳腐だが、三人の登場人物には血肉がかよっていて、それぞれの吐息が聞こえる。諸手をあげてというわけにはいかなかったが、最終的に私も受賞に賛成票を投じた。

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コメント

「乳と卵」―読んでみました。 これに清水先生がコメントなさるとは・・?と ちょっと 口元が緩んでしまいました。 大急ぎで図書館に行って読んできたのですが, 私は 石原さんの評のほうが なんだか納得いきます。 「蛇にピアス」にも感じましたが, 秘すれば花-みたいな感じがすることを 饒舌に語る・・・ のは 小説としてあってもいいのかもしれませんが、 う~ん・・・・ すみません。とりとめもなく。笑

投稿: Detour | 2008年2月26日 (火) 10時36分

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