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2007年11月 8日 (木)

北原白秋の生家(柳川市)を訪れる

ブログの内容を少し軌道修正します】

 これまで政治・経済・社会に関する新聞記事を中心としてブログをつづってきました。これからは弁護士清水建夫日誌としての内容や私が個人的に経験したり、感じた内容の比重を少し増やして行きたいと思います。勿論日々感じた政治・経済・社会問題も今後ともとりあげていきたいと思いますが、これまでより私的な内容が増えることをご了承下さい。

【鉄建公団訴訟】

 11月4日(日) 偶然にも福岡県柳川市にある北原白秋の生家(北原白秋記念館)を訪ねることができた。その日は鉄建公団訴訟原告団との打ち合わせのため福岡県みやま市瀬高町を訪ねた。
 1987年4月1日、旧国鉄はJR北海道、JR東日本、JR東海、JR西日本、JR四国、JR九州とJR貨物の7社に分割され、民営化された。この分割・民営化について時の総理中曽根康弘は、国鉄労働組合(国労)を壊滅させ、総評を崩壊させることを意識し、その一念で行ったことを1996年頃からNHKや雑誌のインタビュー、あるいは自らの自叙伝で勝ち誇ったように公言している。中曽根は気にくわない国鉄総裁の首をすげかえてまで、国鉄当局に憲法28条、労働組合法7条が禁じている不当労働行為を徹底的に行わせた。この組合差別の結果JRに採用されず、1990年4月1日国鉄清算事業団から解雇された人たちのうち第一次訴訟の原告が鉄建公団訴訟原告団である。原告団は第一次訴訟が労働者数287名であったが、追加提訴もあり、全体で労働者数919名となり、今わが国で最大の労働事件となっている。2005年9月15日東京地方裁判所民事第36部は第一次訴訟について国鉄に不当労働行為(組合差別)があったことを明確に認めた。鉄建公団訴訟は現在東京高裁に係属中である。この訴訟事件と中曽根元総理の謀略については改めて触れることとしたい。

【はかたとくるめ】

 11月4日は日帰りの強行日程。私の自宅は羽田空港と同じ大田区内にあり(大田区南馬込)、早朝であればタクシーで15分以内で着く。羽田発6時25分のANA1番機に乗るため朝5時20分に家を出た。11月の朝5時台は外は暗い。空港には予定どおりスムーズにつき搭乗手続きまで30分位ゆとりがあった。福岡までの飛行時間は1時間40分位で午前8時に福岡空港に着いた。福岡は晴で明るかった。福岡空港からは地下鉄2駅(10分)でJR博多についた。博多からリレー特急つばめ5号で久留米にむかった。リレー特急つばめ号は開通した九州新幹線の新八代駅から鹿児島中央駅までを走るつばめ5号とつなぐための在来線特急で、九州新幹線はかつての国鉄のエース特急号の名称つばめ号を列車名に使用している。それとつなぐ在来線特急がリレー特急つばめ号で、リレー特急つばめ1号はつばめ1号とつなぐという様に同じ番号が付されている。リレー特急つばめ5号は博多を9時10分に出発し、9時37分に久留米についた。私は5歳の頃継母に連れられて、継母の実家である久留米を訪れたことがある。当時私たち一家は父の故郷である瀬戸内海にある広島県の小さな島(安芸郡下蒲刈島三之瀬村、現呉市下蒲刈町三之瀬)に住んでいて、私と継母は船で呉線仁方(にがた)駅までわたり、呉線で呉、広島を経て山陽本線で関門トンネルをくぐって博多につき、博多から久留米についた記憶がある。関門トンネルでは海(関門海峡)の下を列車が走ったこと、“はかた”は九州では大きな町であったことを子供心なりに感じていた。久留米では鶴乃子という甘いお菓子があったこと、買い物かごを下げて買い物をするかしこい犬がいたことも思い出した。継母とは5歳から7歳までの3年間しか一緒にすごさなかったが、6歳のとき私が結核(肋膜炎)になった4ヵ月間つきっきりで看病してくれた。父が事業に失敗した中で、7人の子どもたちの間で、継母は3年間精一杯母親役をがんばったが、力尽きて私たちと別居し、その後父と離婚した。60代半ばで肝硬変で亡くなった継母の決して幸せとは言えなかった生涯を思うと胸が痛んだ。今では久留米は人口30万人を超える九州8番目の大都市となり、昔の面影はなくなっていた。久留米から9時43分に2輌のワンマン電車に乗り、10時12分に瀬高町についた。駅には福岡・佐賀・長崎地区の原告の責任者である原田亘さんがむかえにきてくれていた。

【北原白秋】
                 (ウィキペディア(Wikipedia)より)

 北原 白秋(きたはら はくしゅう、1885年(明治18年)1月25日 - 1942年(昭和17年)11月2日) は、日本の詩人、童謡作家、歌人。本名は北原 隆吉(きたはら りゅうきち)。
 生涯に数多くの詩歌を残し、今なお歌い継がれる童謡を数多く発表するなど、日本を代表する詩人である。

 1906年、新詩社に参加。与謝野鉄幹、与謝野晶子、木下杢太郎、石川啄木らと知る。「明星」で発表した詩は、上田敏、蒲原有明、薄田泣菫らの賞賛するところとなり、文壇の交友はさらに広がる。
 1909年、「スバル」創刊に参加。木下らと詩誌「屋上庭園」創刊。また処女詩集『邪宗門』上梓。官能的、唯美的な象徴詩作品が話題となるも、年末には実家が破産し、一時帰郷を余儀なくされた。

 1910年、「屋上庭園」二号に掲載した白秋の詩『おかる勘平』が風俗紊乱にあたるとされ、発禁処分を受けた(同誌は年内に廃刊)。またこの年、松下俊子の隣家に転居。1912年、白秋は隣家にいた松下俊子と恋におちたが、俊子は夫と別居中の人妻だった。2人は夫から姦通罪により告訴され、未決監に拘置された。2週間後、弟らの尽力により釈放され、後に和解が成立して告訴は取り下げられた。人気詩人白秋の名声はスキャンダルによって地に堕ちた。この事件は以降の白秋の詩風にも影響を与えたとされる。1913年春、俊子と結婚。三崎に転居するも、父と弟が事業に失敗。白秋夫婦を残して一家は東京に引きあげる。『城ヶ島の雨』はこのころの作品であるという。

 1914年、父母と俊子との折合いが悪く、ついに離婚に至る1916年、江口章子と結婚し、葛飾紫烟草舎に転居。筆勢いよいよ盛んにして『白秋小品』を刊行する。1917年、阿蘭陀書房を手放し、出版社アルスを創立。この前後、家計はきわめて困窮した。

 1920年、家庭内の対立により章子と離婚。1921年(大正10年)、佐藤菊子(国柱会会員、田中智學のもとで仕事)と結婚。信州滞在中想を得て、『落葉松』を発表する。

 1937年、糖尿病および腎臓病の合併症のために眼底出血を引きおこし、入院。視力はほとんど失われたが、さらに歌作に没頭する。1938年にはヒトラーユーゲントの来日に際し「万歳ヒットラー・ユーゲント」を作詞するなど、国家主義への傾倒が激しくなったのもこの頃のことである。1942年、小康を得て病床に執筆や編集を続けるも、11月2日逝去。享年57。

【落葉松】


 からまつの林を過ぎて、
 からまつをしみじみと見き。
 からまつはさびしかりけり。
 たびゆくはさびしかりけり。

二           
 からまつの林を出でて、
 からまつの林に入りぬ。
 からまつの林に入りて、
 また細く道はつづけり。


 からまつの林の奥も
 わが通る道はありけり。
 霧雨のかかる道なり。
 山風の通ふ道なり。


 からまつの林の道は、
 われのみか、ひともかよひぬ。
 ほそぼそと通ふ道なり。
 さびさびといそぐ道なり。


 からまつの林を過ぎて、
 ゆゑしらず歩みひそめつ。
 からまつはさびしかりけり、
 からまつとささやきにけり。


 からまつの林を出でて、
 浅間嶺にけぶり立つ見つ。
 浅間嶺にけぶり立つ見つ。
 からまつのまたそのうへに。


 からまつの林の雨は、
 さびしけどいよよしづけし。
 かんこ鳥鳴けるのみなる。
 からまつの濡るるのみなる。


 世の中よ、あはれなりけり。
 常なれどうれしかりけり。
 山川に山がはの音、
 からまつにからまつのかぜ。

【北原白秋と宮沢賢治】

 宮沢賢治については以前にブログで触れた。賢治も白秋も商家に生まれ、自由な雰囲気の中で詩や童話や童謡の世界に没頭することができた。明治期の青少年としては2人とも恵まれていたと言える。賢治は成人になるにつれ清貧な生活に努め、「雨ニモマケズ」の詩は賢治の生き方そのものであった。一方白秋は姦通罪で告訴されたのを典型として清らかな詩と白秋の実生活は必ずしも一致していない。しかし、青年期の私の心にしみたのは白秋の「落葉松」であって賢治の「雨ニモマケズ」ではなかった。線の細かった青年期の私にとり「雨ニモマケズ」は正直言って重たかった。清らかさではなく、白秋のもつ“影”が人の心にしみ入る詩を生んだのではないだろうか。

  

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